北海道[十勝川温泉]
河東郡音更町十勝川温泉南16丁目2
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十勝の歴史編
十勝の開拓は十勝川河口の大津から始まった!
【十勝発祥の地】
1799(寛政11)年、すでに前年に漁業番屋が造られていた十勝川河口の大津に、幕府は駅逓を設けました。駅逓とは北海道独自のシステムで、旅人に馬の手配を図る役所のことです。1805(文化2)年には釧路〜大津間に早くも道路が開削されています。
十勝内陸部の調査も大津を起点として始まります。
1858年(安政5)年に函館奉行の命を受けた松浦武四郎が、十勝川を上流へと探索に出かけます。
和人が初めて十勝に定住したのも、大津港(豊頃町)に漁場を開いた青森県人・堺千代吉です。
大津の海岸には駅逓のあった場所に
十勝発祥の地碑が建てられている
1880(明治13)年には、十勝外四郡戸長役場が設置され、大津は十勝の行政上の中心地的存在となりました。明治初期、入植者たちは函館から船に乗り大津を目指したのです。
明治26年には、北海道集治監釧路分監(政治犯などを収容していた刑務所。当時は帯広に分監がなく釧路が任にあたった)が、受刑者700人を動員して大津〜幕別〜帯広〜芽室を結ぶ道路を開削します。本来の計画は新得まででしたが、芽室川で工費を使い果たしてしまったので、芽室止まりとなりました。
明治30年には函館〜広尾〜大津間に晴れて定期船が就航しますが、明治40年に函館〜釧路間に鉄道が開通すると、大津港は十勝の玄関口としての役割を終えました。わずか10年という短い寿命の航路でした。
【依田勉三史跡(晩成社)】
十勝の開拓のシンボル的な存在が晩成社です。晩成社は会社組織の開拓団で、1882(明治15)年、伊豆の大沢村(現在の静岡県賀茂郡松崎町大沢地区)において創立しました。
晩成社移民団が開拓使の開墾の許可を受け、下帯広村(現在の帯広市)に入植したのは翌明治16年のこと。当時、帯広にはアイヌ10戸、和人1戸が住むのみだったといいます。開拓団は鹿猟の野火やイナゴの大群、天候不良の影響を受け、満足な収穫もできません。晩成社副社長だった依田勉三(よだ べんぞう)は、大津港に一年分の米を蓄えていましたが、帯広までの輸送手段がありませんでした。
明治18年、依田勉三は、美しい原生花園と湖沼群が続く十勝の海岸線の一角、生花苗沼の畔に居を構え、農馬を導入し羊・豚を飼育し、ハム製造を目指します。この頃、13戸あった開拓団はすでに3戸にまで減ってしまっています。
その後、バター工場を開くなど晩成社は十勝の発展に尽くしますが、最後に、勉三が「晩成社には何も残らなかった。然し十勝には」と述懐したように開拓団の経営はうまくゆきませんでした。
復元された依田勉三の開拓時代の家
現在、生花苗沼近くには、依田勉三が暮らした開拓時代の家が正確に復元されているほか、サイロの跡などが残されています。
ちなみに有名な六花亭のベストセラー「マルセイバターサンド」は、晩成社が作った十勝で最初のバター「マルセイバタ」に因んだもの。あのレトロな包装紙は、「マルセイバタ」のラベルを模したものだったのです。
士幌で成功を収めた開拓農家を見学しよう
【伝統農業保存伝承館・美濃の家】
十勝川温泉から北に走ると、士幌町発祥の地である中士幌があります。士幌地区の開拓は、美濃(岐阜県)の資本家・堀口庸五郎の結成した美濃開墾合資会社に始まります。移民団は明治31年、大津港に上陸し、春まだ浅い3月18日に43戸が入殖しました。郷里の岐阜県揖斐郡・本巣郡を出てから実に12日が経っていました。
初めは鍬(くわ)と鋤(すき)など手作業による開墾で、困難を極めましたが、数年後に馬による開墾を導入、十勝有数の農場へと発展します。
川魚や野うさぎ、そしてアイヌと物々交換で得る鹿の肉などが貴重な蛋白源となりました。当時の十勝には、鹿の大群がいて、その毛皮が貴重な産品となっていました。
現存する「美濃の家」は大正5年頃、営農に成功した洞田増二郎によって新築された故郷・美濃地方の様式を残した農家です。白壁造り、40坪の家は当時界隈でももっとも立派なものだったようです。併設する博物館「伝統農業保存伝承館」とともに見学できるのでぜひ立ち寄ってみましょう。
見学無料、開館は9:00〜17:00(11月〜4月は10:00〜15:00)、月曜、年末年始休。TEL01564-5-2211(士幌町教育委員会)
美濃の家
北海道の開拓は囚人労働に依存した
【旧北海道集治監十勝分監油庫(緑ヶ丘公園内)】
【帯広別院本堂】
十勝分監の油庫
帯広別院本堂
明治10年に起こった西南の役後、不平士族らによる政情不安を背景に、政治犯らを北海道開拓に使役する計画が考案されました。明治11年には元老院の裁断を得て、2年後に石狩の樺戸に集治監が誕生します。
政府は、ロシアの南下政策を防ぐのには屯田兵の入殖が最良と考えましたがそのためにも、道路の開削は欠かせません。囚人を使えば人件費の節約にもなる、しかも仮に囚人が死んでも監獄費の節約になるという残酷な政策です。
北海道集治監十勝分監は、その前身の北海道集治監釧路分監帯広外役所が明治26年に開かれたのが始まり。開拓間もない時代で、ようやく大津街道が完成した年です。港からの道路ができるとまっ先に誕生したのが刑務所ですから、その狙いもよくわかります。それでも職員は250人、受刑者はなんと1300人もいたというから驚きです。
明治28年には緑ヶ丘に移転し、十勝分監と名乗るようになります。現在の帯広駅から南側は十勝分監の所有した開墾地です。
緑ヶ丘公園のパークゴルフ場横にあるレンガ造りの建物は、明治34年に建てられた十勝分監の油庫(灯火用の油保管庫)です。また帯広市東9南6に位置する帯広別院本堂は、明治26年に建てられた教誨所(きょうかいじょ)を移築したもの。床材にはタモ(ヤチダモ)などを使っていますが囚人が手斧で仕上げたため波打っているのが印象的です。時間が許せば、もうひとつの歴史遺産を見学してください。
約8万個のレンガが使われた三井金物店
【六花亭ホールkyu】
明治44年から大正元年にかけて、帯広で民間として初めて建てられたレンガ造りの建造物が帯広市西5南7に残る「旧三井金物店」。開口部に設けられた櫛形三連アーチは、全国にも先例のないものでした。使われたレンガは北海道集治監十勝分監の製造と推測されています。
レンガ積みはイギリス積みで、門塀部分のみがフランス積みです。イギリス積みの方が強度も強く経済的といわれますが、地震や対寒のため、基礎には1mまで掘り下げてレンガを積んでいます。
明治40年に鉄道が開通しますが、施工に関しては鉄道工事に来ていたレンガ職人があたったといわれます。
山梨県生まれの三井徳宝は、函館の金物商に勤めた後、明治30年に独立し、翌年、当時はまだ開拓が始まったばかりの帯広に三井金物店を開店します。その後、三井家は、帯広の発展を支えることになります。
現在、この素敵な建物は六花亭により保存され、音楽ホールとして活用されています。
「旧三井金物店」の櫛形三連アーチ
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